ニューの祭典
New rite
2017
ニューの祭典/春
上野公園のゴミ・その他
サイズ変容
ニューの祭典/夏
サイレントダンス1
木、ガッシュ、ポスカ、ガラス、テグス
420×180×110
サイレントダンス2
木、ガッシュ、ポスカ、ガラス、テグス、銅線
420×215×110
無生
木、絵の粉、ガラス、花器、剣山、紙、接着剤
サイズ変容
無生ためのエスキース
ガッシュ、段ボール、接着剤、シール、紙、鉛筆、炭、ポスカ、油性ペン、水性ペン
18×34×96P
ニューの祭典/秋
絵砂の木
375×160×130
秋冬図屏風 二曲一双
330×475
ニューの祭典/冬
夜もふけて光はその力を放つ
べニヤ板、ガッシュ、ポスカ、ボール紙
400×700×340
ニューの祭典/春
ありふれた日常を執拗に観察することでアートになりえる「瞬間」をどうとらえ形にできるのか、をいつも考えている。
今作は、アート空間である3331 Arts Chiyodaとその周辺をあえて注視し「アートと新しさとは何か」について年間を通じ、ある種儀式的に構成していく。以前から「アート空間と日常」が気になっていた。しかしアート空間にはアートを見に行くわけだから日常など気にはしない。などと考えていた所、3331 CUBE shop&galleryの空きスペースの話をもらい、今回の長期展示を試みる運びとなった。と、言っても未知の部分が多い状態でこの企画に賛同してくれた担当S氏の理解力と寛大さに敬意を払いたい。
さて、春の展示では2016年に上野公園の花見会場や神田周辺で収集したゴミを素材に制作した「ネオ茶室/桜の間」「神田を転売する」よりオブジェを中心としたインスタレーションでスタートする。以降、夏/秋/冬と、季節の移り変わりと共に変化する「ニューの祭典」から新たな瞬間をお楽しみ頂けたら幸いである。
ニューの祭典/夏
オブジェ制作にあたって意識することは無意味からどんな意味を、日常生活を送りながら引き出せるかにかかっている。今回は「夏と無音」というテーマに着地したが、これもすべて執拗に日常を観察した出た結果に過ぎない。制作時は、暑さにだらける、突然作品が嫌になる、親類の死など、一つもろくなことが思い出せない。けれど、日常から発生する様々なアクシデントを混ぜながら完成する作品こそがオリジナルであり、作品が放つ本当の意味での美や物語に繋がっていく、と私は考える。
かわいいもの、美しいもの、気になるモノ、欲しいもの、誰かの手に届けることは、仕掛けが必要だ。しかし、それを妙に意識しだすとアートに必要な「違った視点で再度、思考すること」が一気に霞んで見えなくなる。無意味の中にある意味を貫く行為はやはり信念が重要になってくる一方で、私自身、制作においてイメージ通りに進むことに興味がない。
オブジェに限って言えば、きっかけさえあればあとはある程度でいい。だが、このある程度が難しい。
ニューの祭典/秋
今作は春の棚に再び戻り、<拘束された夏><遮蔽(しゃへい)された秋>をイメージし制作している。また夏の展示で絵の砂を生み出した「絵砂の木」が登場し冬支度をはじめた。
見立てとしての四季は佳境に入る。屏風は風をどうかわすのだろう。
絵砂の木のメモ書き
高さ30センチほどの木彫を2017年春から制作していた。特に急ぐこともない自由な制作のはずが、梅雨入りした頃、気に入らなくなってしまった。しかし、「制作で大切なことは眺めること」と、師の教えが頭をよぎる。無視はできない。見える所に置いて、手に取る、遠ざける、色を塗る、を繰り返した。
着色し層になった木彫を鉄やすりで削ってもみた。ガ、ガ、ガ、と鈍い音を聞きながら削りカス(絵の砂)を捨てずに紙に包んで道具箱に入れた。本来、削りカスはゴミだ。けれど大小さまざまな形や、削る日によって違うさまを見ていると、愛着が沸いた。
砂遊びをするように山を作っては崩す。瓶いっぱいのそれが溜まった頃、放置した木彫の存在を絵の砂が越えた。生命の気配すらする。まずい傾向だ。けれどこうなってしまうと後戻りは出来ない。
「ニューの祭典/夏」では絵の砂を土とし、そこに拾い物の枯木を組み合わせて新たな彫刻の可能性を探す試みをした。
ニューの祭典/冬
あの日は今すぐ車がほしい、早々に帰りたい、この両手の荷物を消し去りたい、などを呪文のように繰り返しながらひたすらに歩いていた。寒い日だった。
私の気持ちとは裏腹に横の県道は車がどんどん通過していく。いつもより若干疲労している以外はなんらかわりがない道のはずだった。けれどちょっと先の方で聞きなれない音が耳に入ってきた。無視するべきか否かで迷っている暇はなく、結局その場所で足が止まる。ガシャ、ン、ガシャと車に轢かれていたのは一畳ほどのべニア板だった。
不協和音・野良べニア・車・道路そして近隣に対して何一つメリットがない状態。けれど私は機械のように、持ち帰り可と勝手に判断、両手の荷物を高速で自宅へ運ぶ、作業用手袋の準備、安全の確保、を経てベニヤ救助を成功させた。
軽く汚れを拭いて壁に立てかけ眺める。頭の中でじんわりとほぼ完成に近い“何か”が浮かんでは消えを繰り返す。何かを知るためには制作するしか選択肢はなかった。
今作「夜もふけて光はその力を放つ」はあるイメージを元に制作を進めている。それが具体的になにであるのかは、ここには書かない。最終的にこれを元に新作を完成させニューの祭典はひとまず完結する予定だ。今作はエスキースでありオブジェでもある。
そして展示棚の位置について。妙に高く、鑑賞するにはもどかしさを覚えるかもしれない。作品自体をもっと俯瞰できればわかりやすいのかもしれないが、わかりやすい作品とは一体なにか。そもそも寒中で轢かれていたべニアと店内の関係性はなにか。そんなあれこれを考えるのにはちょうど良い距離だと私は思っている。
春夏秋冬をテーマに制作してきた「ニューの祭典」はとうとう最後の冬となった。しかし季節は確実に春になろうとしている今、ステートメントを書いている。
加えて今作を語る上で2017年12月5日「ニューの祭典/秋」搬出の出来事をまず書いた訳だが、些細な過去を改めて掘り起こすことに個人的抵抗があるので何もかもが落ち着かない。
本当にどうってことないことを一年かけてやってきた。それでもまだまだ考えることは山ほどあり制作も終わらない。どうかしている。
長期に渡るシリーズは自身にとっても初なのでまだ見ぬ光景を作り出せる喜びを感じている。同様に終わりのない旅のようで不安やその他の葛藤は大きい。
さて、この一年間は長い短いで考えると、ニューの祭典と共に歩んだ時間は普段よりは長かった。長期に渡るシリーズは自身にとっても初なので葛藤や不安を抱えながらもまだ見ぬ何かを作り出すことの意味は確かに生きることに繋がっていった。
しかし日常と非日常を意識しながら作品制作に打ち込めたことは、次回作へのヒントを見出してくれた。
だが、予想できないからこそ人は考え行動し生きていける。などと、結局紋切り型になってしまうが、生きていく中で様々なことに対してどう向き合い形に出来るのかが一番重要であることは確かだ。
BO-JW.|New rite / ボー・ジェイ・ダブリュー|ニューの祭典
2017. <春> 3/24 - 4/25 <夏>7/29 - 8/31 <秋>11/2 - 12/4
2018. <冬> 2/17 - 3/4
3331 CUBE shop&gallery
東京都千代田区外神田6丁目11-14